身体文化3

整体の学習も、やはり空の文化だろうか。

色んな技術を稽古するが、最初はどうにも儀式的に見えて、意味がよく分からない。格好つけて人の掌を押さえて、それに何の意味があるのか分からない。

それでも、分からないなりに稽古を続けるのだが、要求された体の使い方を続けるうちに、自分の手の感覚が変わった事に気がつく。触れて、どこへ響くのかが分かる様になるのだ。頭に触れたのに足へ響いたり、背中に触れたら肝へ響いたり、体の内的な連動が把握出来る様になる。

ヨガやボディワークをやり込んだ人は、この感覚が敏感で、施術を受けながら、あ、足に響いていますといった類の感想を漏らす人も多い。施術者は、他人のそれを自分の感覚として捉える様になる。それがないと、症状の原因が分からないので、施術など出来ない。

無意味に思えた型稽古も、こうした感覚というか知覚を得る為の手段なのだが、一旦、その知覚を得た後では用が済んだ感もある。求め続けて、手に入った頃には要らなくなるという転倒があって、それもおもしろい。

使い続けていると知覚は敏感になるので、そのうちに触らなくとも、見たら分かる様になるのだが、触る様に見る様になったら、整体はいよいよ自由でおもしろいものになる。やはり空の器が満たされる如しだ。器には、意味がない。

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