通っている武術の道場は変わっていて、最初は空手道場だったが、ある日、木刀を用意する様に言われて、何時の間にか、剣術が中心の道場になった。
先生にとっては空手も剣術も、同じ事を指導されている意識なのだろうが、生徒にとっては別の事を習っている様なもので、自分は戸惑ったし、稽古仲間もそうだったのではないだろうか。空手の感覚で木刀を振ると叩いてしまうので、斬る動きがなかなか身につかなかった。
それでも何年か経ってみると、不思議と同じものに思えて来るので不思議だ。それでも違いは感じていて、技法というよりは記録媒体としてのフォーマットの違いを感じる。中国の影響が強い空手の型にはプログラム的というか、漢文を読み解いていく様な知的な楽しみがある一方、神道流の型には器の中を満たしていく様な感覚を覚える。これは弓道をやっていた時にも感じたものだ。
空の文化というか。例えば、日本家屋も、一つの部屋で布団を畳んだり、ちゃぶ台を出したりする事で用途を変えていくが、容れ物自体よりも中身に本質がある。日本の身体文化の学習様式というと、大風呂敷なのだが、そんな事を考えた。
そういえば、先輩方がやって見せる手に木刀を持たないでやる型は、まるで手に何かを持っている様に見えるし、体はその動きに反応して避けてしまう。あれなんか本当に空なので、再現がまだ出来ない。