関係妄想

少年野球のパワハラ紛いの指導をする熱血監督の様なタイプが苦手である。自分の人生で自己実現してくれよというか、本当は自分がやりたいのに、その欲望を他人に投影してあれこれ言っているんじゃないのか?という偏見を自分が持っているからだ。

出身校の影響もあるだろう。母校は甲子園の常連校なのだが、それは中学の有力選手をスカウトしての青田買いによって実現されている。 野球部クラスなどもあって、蝶よ花よと大事にされているのだが、高校を卒業したら只の人。大人になっても通用するのは一万人に一人くらいではないのか。あの仕組みも生徒を使い潰す学校側のエゴに見えた。

感情移入の仕方が歪に見えるのだが、それを歪に感じるのは自分が病的な個人主義者だからかもしれない。現実的に組織への非適応を招くのだが、フリーランスをやっているくらいなので結果は引き受けている。

いや、部活なら止めたら良いだけなので好きにすれば良い。じゃあ、子育てはどうだろうか? 医者には向いてないのに、医学部へ進む開業医の子どもとか。 子どもが親の欲望を内面化して、親の希望通りの進路を選ぶなんて事もあるけれど、子どもには子どもの人生がある。親が決める事ではない。

しかし、一連の話題は、現代の都市生活者の了見の狭さなのかもしれない。例えば、農業は世襲が前提だ。土から作らなければならないので、時間が掛かる。 桃栗三年で済めば良いけれど、 換金性の高い農作物を生産する為には親から田畑を引き継ぐ必要がある。一代で作り得るのは芋類くらいかもしれない。

例えば、個人技に見えるものについても、クラシックのミュージシャンやバレリーナは半ば親の作品ではあるまいか。職業にする為には、幼児期からの教育が前提だからだ。結果は本人次第だとしても、キャリアのスタートは自己決定の範囲外だ。落合陽一氏が落合信彦氏の作品なのかというと、それは分からないが。

そういえば、たまに食べに行っていた鰻屋なのだが、最近、息子さんの代になって、正直、なんじゃこりゃという気持ちである。これは先代の親父さんが悪いのか、それとも息子さんの責任だろうか。プロなのだから、息子の焼く鰻の出来は分かるはずである。

従来、自分は世襲には批判的だったのだが、人に託したい思いくらいはあるよなあというか、人類社会はそういうものでもないんだろうなと思う様になった今日この頃である。主語が大きいのだが、自己決定と自己実現についての話題だった。

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